アイはやさすら ほどきむすび

琉球弧の神々と歴史を取り戻そう。 お爺、お婆が守ってきた宝の島✨琉球‼ 私たちに今何ができるのか。 まずは知ることから始めよう‼

< 2019年01>
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てぃーだイチオシ

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驗(しるし)の魂(たま)
「神号を日子、天孫の後裔、始め伊紀按司たり」伊紀按司とは紀氏伊集院なり。

日本本土と琉球、さらに遠く南海の島々との結びは自然が育む潮の流れによって不可欠、かつ必然であっただろう。
日本人南方渡来説を信じたのは、尚清王、またの名を岩屋天狗こと、岩屋梓梁(いわやしんりょう)でした。

「中山世鑑」「中山世譜」編纂時、古代の二十五代の王名とその業績をいかに処理すべきかについて、琉球王朝は幕府、島津の命により、1731年、「源為朝の子=舜天」を琉球建国の始祖と決定し、天孫氏三十五代の王名とその事績を歴史から抹殺することとしたのです。

天孫氏とは、
紀氏伊集院家のこと。
その伊集院家も、後に、九州の地において抹殺されることとなる。


英祖王統

ゑぞのいくさもい...
「ゑぞ」とは英祖王のことであり、
英祖王=伊集院俊忠
大成王=伊集院久兼
英慈王=伊集院久親
玉城王=伊集院忠親
西威王=伊集院忠国


玉城王である伊集院忠親が浦添に派遣したのは、娘婿となる「平田宗重=伊集院苗代川領主」である。
また、玉城王の娘婿に、「天女伝説」で語られる、琉球人奥間大親が迎えられ、「察度と泰期」をなす。平田宗重は奥間大親に苗代按司の地位を譲ったのである。
そして、察度は西威王の娘婿となり「武寧」をなす。
察度王は朝鮮、支那、南海との交易をし勢威を誇る。

そして、平田宗重と玉城王の娘との子、「承察度(大里=ウフザト)」が勢威して独立し、「山南王承察度」を自称した。

平田宗重は奥間大親に地位を譲ったあと、大隈へ移り、畿西、琉球、宗との貿易を推進し、土地の人々からその功績を讃えられ、大隈半島の「平田神社」に祀られる。

平田宗重の他に玉城王は、新里按司=佐銘島宗房(鮫島、阿多領)と大里按司=有川宗若(市来大里領)も派遣し、平田、新里、大里の三人にその保護をうけていた。
彼らはそれぞれ玉城王の娘婿となり、
佐銘島宗房の子「佐銘川宗家=佐女川大主」は有川宗若の娘を娶り、「有川氏」を継いで、「佐女川=鮫川大主」を名乗り、大里按司、新里按司を兼ねたのである。

承察度の勢威により政務が乱れた混乱時、薩摩から「北山王伯芝=島津貞久」が渡流してきたのである。
それを要因とし、北山、中山、南山の分裂が起こることになる。


察度王を継いだ「武寧王」は漁色遊びにふけり、失政してしまったのだ。
察度王の交易などにより、親睦を深めていた「明」による、「琉球属領化」を恐れた、西威王=伊集院忠国の第十一子「石屋真梁」が、1405年薩摩から伊集院氏軍を率いて、「尚巴志」を琉球へ送り、武寧王は討たれたのである。

この尚巴志の祖は、遠くは周防大内家の一族「高橋民部弘綱」である。
さらにさかのぼるとそれは、百済王族「淋聖」といい、朝鮮百済第二十六代聖明王の第三子と伝わります。また彼らは「姓 多々良氏」といいます。

そして、この子孫は「築山大明神」の社司と伝わり、多賀大宮司今八幡の禰宜である。

山口市にある、いやあったといわれる「築山大明神(つきやま)」はなんと、平成22年に発掘確認されたのです。

詳しくは下記ホームページへ
https://blogs.yahoo.co.jp/m_kobayashi_30/30667482.html

また「高橋」という名は「泊高橋」に残ります。
彼らは琉球尚王家の創設者「海運商高橋家」です。

大内義弘の命により、玉城王第二子の伊集院大隈守久氏(ひさうじ)は、玉城王第十一子石屋真梁=石屋禅師を開山とし、1390年に曹洞宗法智山「妙円寺」を建立した。「妙円」とは大内義弘の娘のことである。

「妙円寺」には、密かに受け継がれていたものがあります。
それは、真実の正統琉球の歴史でした。





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驗(しるし)の魂(たま)
宮古島の狩俣にどこからか漂着した女がいました。彼女はティンヤ・ウイヤ(天上界)から、ナカマズ(地上界)に降臨した「ンマティダ(母太陽神)」といいます。そしてその娘を「山のフシラズ(イ)」といいます。しかし、娘は怪我がもとで亡くなり、ンマティダは一人で暮らすことになったのです。その後、彼女は毎夜枕上に通う「アサティダ(大蛇神)」との間に「ティラヌプーズトゥミャ」を産みました。

成長したティラヌプーズトゥミャは、狩俣に嫁となる女がいないということで、八重山へ赴き「ヤーマウスミガ」と結ばれ、彼女と共に狩俣に戻ってきました。その後、二男一女が生まれました。

「山のフシライ」の精を受けた狩俣の始祖を「マヤのマツメガ」といいます。
それが先にいう二男一女の一女なのかはわかりません。
その後「ウプグフマダマ(大城真玉)」という神が7人の子を産みました。
彼女は祭司儀礼を司る祭司でもあり、女酋です。

長女「マバルマ」
長男「マヤマト(真山戸)」
次男「ヨ(ユ)マサリ(世勝理)」
二女「シシミガ」
三女「マバラジ」
四女「マカナシ」
五女「マツ(ズ)マラ(真津真良)」

末子の「真津真良」は機織りの名手であり、呪力をもつ女酋でもありました。
その後は甥の「マヤノマブコイ」が武力をもつ男酋となります。
そしてのち「大城殿」という、権力者が現れ、女権から男権へと移っていったのです。「大城殿」は井戸を掘り、鉄製の大槌、手斧などを部落にもたらせたといいます。
その後を継いだのは「ユマサズ」で、築城、建築、造船、航海、貿易など、政治的社会へと変換していきます。
これらは歌や伝承で残されてきたものです。


神の来歴を語った「真津真良のフサ」は「ウヤガン祭」で、始めの日と最後の日に謡われます。「マヤのマツメガ」を狩俣の創世神とし崇めています。

「フサ」は本来「カンフサ」といい「神の草」という意味です。

ウヤガン祭で、「スサグ(スサスグ)」という「カミンケーイ(神迎え)」では、大神島の神は天から降り、狩俣の神は南方の海から来るといいます。

大神島は、祭祀初めの女神が眠るとされています。彼女は一万二千年前に流れ着いたと伝わるのです。

そして、日本最古の神社の名は「大神神社(おおみわ)」といい、御祭神は「大物主神」で「大蛇神」とされています。
また、出雲では、その始祖なる神のこもる山を「大神山(おおかみやま)」といいます。(現在は大山(だいせん)と呼称)
ここは、塞ノ神の元なる神が祀られる神山です。猿田彦の父神母神です。
狩俣には「サダル神」という杖を持った女神が神事を司ります。この神は猿田彦の原型ではないかといわれています。

その猿田彦の父神の名を「久那土大神」と申します。伝承で彼は古代インド、ドラヴイダ族の王であったと言われています。
狩俣の神迎えの神は「南方から来る」でしたね。

ちなみに出雲族は、末子(男女)相続であり、大和族は、長子(男)相続です。


琉球列島は海に浮かぶ橋。
琉球列島に与えられた使命は世界の橋渡し。



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驗(しるし)の魂(たま)
初代「神武天皇」の 「神武」という名は、8世紀後半に淡海三船によって奉られました。

神武天皇の名はいくつかあります。
知りうる限りをあげてみます。

①神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)
掲載資料「日本書紀」(和風諡号)
②彦火火出見(ひこほほでみ)
掲載資料「日本書紀」(諱)
③狭野尊(さぬのみこと)
掲載資料「日本書紀」神代紀第十一段の第一の一書での幼名。
④神日本磐余彦火火出見尊(かむやまといわれびこほほでみのみこと)
掲載資料「日本書紀」神代紀第十一段第二・第三の一書
⑤磐余彦火々出見尊(いわれびこほほでみのみこと)
掲載資料「日本書紀」神代紀第十一段第四の一書
⑥磐余彦尊(いわれびこのみこと)
掲載資料「日本書紀」神代第十一段第二の一書
⑦磐余彦帝(いわれびこのみかど)
掲載資料「日本書紀」継体紀
⑧神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)
掲載資料「古事記」
⑨若御毛沼命(わかみけぬのみこと) 掲載資料「古事記」
⑩豊御毛沼命(とよみけぬのみこと)
掲載資料「古事記」
⑪始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)
掲載資料「日本書紀」美称
⑫天村雲(アメノムラクモ)
掲載資料「宗史」「出雲伝承」
⑬アメミコ❗
掲載資料「ホツマツタエ」
⑭タケヒト
掲載資料「ホツマツタエ」
⑮カンタケ(神武の略)
掲載資料「出雲伝承」
⑯カンヤマトイハワレヒコ
掲載資料「出雲伝承」
⑰マサルン
掲載資料「恩納村伝承者作成文章」

などなど。
「イハ」は漢字で「伊波」と書かれています。
しかし。。。
何よりも、何よりも。
「アメミコ」です。
先祖の母系は「沖縄」なのです。

第73世武内宿禰が「古事記の宇宙」に記しています。
「古事記」の「天孫降臨」の場面です。

海幸彦命(火照命)と山幸彦命(火遠理命)は互いに道具を交換して仕事をしたいと申し出ます。海幸彦は再三断ります。山幸彦は粘り、道具を交換することになります。
山幸彦は兄の釣り針を借りて海に出ますが、さっぱりつれません。
そうしているうちに釣り針をなくしてしまいました。海幸彦が激怒します。
山幸彦は、潮流を司る「塩椎神(シオツチノカミ)」に出会い、その言葉に従い、「大綿津見命(オオワタツミノミコト)」の御殿(宮殿)にたどりつきます。

大綿津見命の御殿は「琉球(今の沖縄)」にあったと伝えられています❗
潮路に乗り、ついた先にあった御殿は、回りを海に囲まれたという意味で、竜宮城、海の中にあったのです。
大綿津見命を降ろしていた場所が琉球だということです。
竜宮城ならぬ「琉球城」とでもいいたくなる御殿です。
大綿津見命の娘の、「豊玉姫命」が山幸彦の探していた釣り針を見つけ出してくれました。
二人は結婚し、「 鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)」を授かります。この方が、後の「神武天皇」の父なのです。
そして、「 鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)」は「玉依姫」と結婚し、「神武天皇」の誕生となります。

山原に残る「ウンジャミ」はこの時のことを語っているのかもしれません。

国頭村の比地には、弓を持った人物と海人のやりとりが残ります。

伊平屋島には、藤原 貞幹(ふじわらていかん)の「衝口発」にもその記述があります。
「神武天皇は伊平屋島で生まれた」と。


なんと❗この沖縄で、世界最古の釣り針が発見されています❗

https://www.bbc.com/japanese/37405022





豊玉姫の歌
赤玉は 緒(を)さへど光れど
白玉の 君が装(よそひ)し
貴(たふと)くありけり

火遠理彦の歌
沖つ鳥 鴨着(かもど)く島に
我が率寝(ゐね)し 妹(いも)は忘れじ
世の尽(ことごと)に


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琉球列島の宝物



驗(しるし)の魂(たま)
「われわれは宝の上に寝ている」琉大兼島清教授

1954年、沖縄で天然ガスが地表に吹き出した。勝連半島の屋慶名でボーリングした時に、ガスが噴き出し燃えたのである。
那覇市内でも、西原町でも、ガスが噴出した。
沖縄本島の南部全域にわたって、水溶性ガスが存在していた。

また、宮古島には恐ろしい量の原始埋蔵量があるのです。

それらは年間のガス使用量を三千万立方メートルとして、単純に計算しても600年は持つという。

天然ガスを採取するため、地下千メートル程ボーリングをすると、40度C以上の地下水がガスと共に湧いてくる。

私たちの足元には有り余るエネルギーが眠っている。

西表島の東海岸で、ボーリングを実施したところ、かなりの埋蔵量の銅鉱床が発見されている。
更に、久米島の仲里には金鉱がある。しかも良質のものだという。

久米島にはとても見事な「金色の葉」がなる蘇鉄がある。

https://blogs.yahoo.co.jp/aiuti27go3/30374970.html

幻の古代ムー大陸は、蜂の巣のような海底ガスベルトの火山ガスによる爆発により沈んだと、チャーチワードは言っています。



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驗(しるし)の魂(たま)
「ユタのことだよ」と伊藤が西郷のことをそう称していた。
伊東とは伊東博文。
西郷とは西郷隆盛。

消された琉球の歴史の裏には、実は明治にまで延々と続く歴史抹殺があった。

窪田氏の書き綴る文章に、ハッと息を飲むばかり。

さて。。。
窪田氏の記す琉球王朝の実態を明らかにしていきましょう。

【舜天王統】

舜天王について、私たちはこう聞いていました。
源為朝が琉球に渡来し、大里按司との間に生まれた尊敦(ソントン)が、利勇を討って舜天王となる。。。と。

「岩屋天狗と千年王国」より。
舜天王統=島津系舜天王統である。

琉球天孫王統「紀 恒成」が南支において敗死後、権臣利勇が簒奪(さんだつ)したが、恒成が京から琉球に奉遷していた「尊恵親王(二条天皇皇子)が国人に擁立(ようりつ)されて王位につき舜天を称した。
母方祖父の政治的トラブルの為、生まれたばかりの尊恵親王は、藤原氏伊集院家成の請いにより、勢氏志摩津に、預けられ「志摩津氏」を称した。
「紀 恒成」の死後、「紀氏」は琉球を去り、本拠地(柚子院)に移り、「伊集院氏」を称したといいます。


父ー二条天皇
母ー源 光成の娘
舜天王=尊恵親王


その子「舜馬順熈」は実は「シマズ」と訓み、熈=光る・広まるの意。
父ー尊恵親王
母ー紀 家成の女
舜馬順熈=源忠久

義本王=源 忠義
のち日向へ逃亡し、大隈守惟宗志摩津忠義を名乗る。


島津氏は南支那渡来の姫氏伊集院氏の部下(海女頭)であった。

島津氏は、琉球王朝主家筋、伊集院家との抗争において、1550年、島津貴久が鉄砲によって南九州の豪族らを圧倒的に制圧し、貴久の子、義久・義弘兄弟によって、ようやく九州を制覇していき、「伊集院家の部下」であったという事実を徳川家と共に消し、隠蔽する。

徳川家にも消したい歴史事実があったのです。それは島津氏と結んだ、「系譜偽作協定」
消し去りたい過去の系譜を島津氏と共に隠蔽をはかりました。

伊集院本家の廃絶‼
そして、
岩屋梓梁(いわやしんりょう)こと、「琉球尚清王」の歴史的抹殺。

岩屋梓梁は、1549年、宣教師フランシスコ・ザビエルをインドのゴアから鹿児島に案内してきた「ヤジロー」です。
実はこれが、抹殺するすべての始まりで、ザビエルの死に衝撃を受けた宣教師ルイス・フロイス(1532年生)なる人物のひとことだった。
「日本で天下を取った岩屋梓梁は日本人ではない、蕃異人だ。それは日本の屈辱だ」と豊臣秀吉ら武将に抹殺をせまったのだった。

岩屋梓梁はアラブ生まれ「波斯天竺僧ーマホラム」のアラブ人の血を受け継いだ大男でした。



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驗(しるし)の魂(たま)
スヘラギ祈る
夢のお告げ 神を祭れよ
カグヤマのハニ(土)のヒラデ(皿)に
日モロゲと

初代神武天皇は、神と共にあるお方です。勝利を祈念して休むと夢のお告げがありました。

香久山の土をもって、皿を作り、太陽の光を受けて育った「植物」をお供えし神を祭れ

古代日本人は「チ(血)」を清めることをとても大切にしていました。
四足の獣の肉を食べれば、チ=血が汚れるとしていたのです。
神への供えは太陽の光をいっぱいに受けた植物、血を清浄に保つ、玄米や青菜を頂くことを良しとしていました。

これは「太陽を頂く」ということになり、その太陽の光を受けた供え物を「ひもろげ」といいます。

その頃には、神への供えに四足の動物を生け贄として捧げることはなかったのです。

季節ごとの旬の植物を頂く習わしは、今でも続く日本の習慣です。

季節ごとに成る植物は、太陽の光を浴びた土と水によって、その場の情報と共に波動を受けて育ちます。

その土地に生まれ育つなら、その土に成る植物を頂き、日(ヒ=火)を浴び、清浄に身(ミ=水)を保ち、血(=ツチ=土)を育むべし。
それが、霊力を高める土台(躰)となる。
これが、タマ(靈)清めの「ヒミツ(火水土)」である。

両腕を左右に開き上げた手の平を下に返し、頭を垂れる行為は、
両手に日月を受け、天神の現れ給ることを念じ、その御魂(みたま)を身体に受ける行為です。

その精を受ける門は、首の後ろの天柱(てんちゅう)と肩甲骨の真ん中にある身柱(しんちゅう)の三角地帯です。

想像力は創造力。
思い浮かべることは、生み出す力になる。

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驗(しるし)の魂(たま)
「の」の字型は「宇宙」を現します。
叡知ある先人はあらゆる物や事象を「型」で現しました。

日本は「斎国(いつきのくに)」ともいい、神宿るところです。
それを下記のように現します。
「悠紀(ゆき)」=東日本=ユの神=裏
「主基(すき)」=西日本=スの神=表

また、五十音表を「な行」と「は行」の間で左右に分けると、ちょうど真ん中に現れるのは、言霊「ス」と「ユ」です。
「ス」=吸う=集中=中心=外側から内側へ向かう力が集まるところ。
「ユ」=吐く=言う(ゆう)=発散=内側から外側へ向かう力

言霊の力によって、人間を支配し、
文字を表すことによって、空間を支配し、
歴史を隠すことによって、時間を支配したといわれます。

それを実行するのは、悪いものを取り祓う「ユ」の務めです。

「ス」は「顕斎(けんさい)」、顕し世(うつしよ)、公(おおやけ)であり、表であり、祭祀を司り、社(やしろ)でおこないます。

「ユ」は「幽斎(ゆうさい)」、隠り世(かくりゆ)であり、裏であり、祈祷を司り、内にある形の無い社(やしろ)です。

私たちの目に見える世界は「ス=太陽」、見えない世界は「ユ=太陰」が司っています。
もっとも大事なことは、この二つの世界が重なるところの「中=恒(こう)」の第三の目といわれる目を持つことです。これは「 松果体」 といわれるものです。
デカルト(哲学者)はこれを「魂のありか」といいました。


「ス」は姿(すがた)ともいい、ス型・形・象を顕します。

古代琉球は「ユの神」をとても大切にしてきました。今も神行事にその名を聞くことがあります。
神事に捧げる「唄(ウタ)」も見えないものですね。「ユ」の音霊には「ウ」が隠れています。
「ユゥ」。声にすると分かります。
雨=ウ
雲=ウン
風=フウ
空=クウ
見えないもの繋がりです。

糸満には「ユキ」の神が祀られているところもありますょ。

ちなみに。。。
新たな支配者の出現により、古代琉球の神使えの人々は東北へ逃げたといわれています。
「ユタ」に似た「イタコ」は確か東北でしたね。。。語源は「ユ(イ)タコ」又は斎(イツキ) と言われています。

そうなると、「斎場(セーファー)」の意味が分かってきますね。
「斎場=ゆにわ」のことです。

湯(ゆ)は水と火の融合で、湯気になります。 湯立(ゆだて/ゆたて/ゆだち)神事というものがあります。
ある精神状態にならないと、この神事は大変厳しいものになります。
これは沖縄の「ユタ」に繋がるものがあるんですょ。


奄美大島の湯湾(ゆ(ヨ)わん)には、南方から来る神を迎える神事があり、それを「オムケー」といいます。
「湯湾岳」の頂きには、奄美大島の開祖アマミコ・シネリコが祀られているそうです。



眼を閉づれは、大神は内に在まし。
眼を開けは、大神は外に超在し給ふ。
(筧克彦「神ながらの道」より)

byはやさすら

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