スピリチュアル
驗(しるし)の魂(たま)
「神号を日子、天孫の後裔、始め伊紀按司たり」伊紀按司とは紀氏伊集院なり。
日本本土と琉球、さらに遠く南海の島々との結びは自然が育む潮の流れによって不可欠、かつ必然であっただろう。
日本人南方渡来説を信じたのは、尚清王、またの名を岩屋天狗こと、岩屋梓梁(いわやしんりょう)でした。
「中山世鑑」「中山世譜」編纂時、古代の二十五代の王名とその業績をいかに処理すべきかについて、琉球王朝は幕府、島津の命により、1731年、「源為朝の子=舜天」を琉球建国の始祖と決定し、天孫氏三十五代の王名とその事績を歴史から抹殺することとしたのです。
天孫氏とは、
紀氏伊集院家のこと。
その伊集院家も、後に、九州の地において抹殺されることとなる。
英祖王統
ゑぞのいくさもい...
「ゑぞ」とは英祖王のことであり、
英祖王=伊集院俊忠
大成王=伊集院久兼
英慈王=伊集院久親
玉城王=伊集院忠親
西威王=伊集院忠国
玉城王である伊集院忠親が浦添に派遣したのは、娘婿となる「平田宗重=伊集院苗代川領主」である。
また、玉城王の娘婿に、「天女伝説」で語られる、琉球人奥間大親が迎えられ、「察度と泰期」をなす。平田宗重は奥間大親に苗代按司の地位を譲ったのである。
そして、察度は西威王の娘婿となり「武寧」をなす。
察度王は朝鮮、支那、南海との交易をし勢威を誇る。
そして、平田宗重と玉城王の娘との子、「承察度(大里=ウフザト)」が勢威して独立し、「山南王承察度」を自称した。
平田宗重は奥間大親に地位を譲ったあと、大隈へ移り、畿西、琉球、宗との貿易を推進し、土地の人々からその功績を讃えられ、大隈半島の「平田神社」に祀られる。
平田宗重の他に玉城王は、新里按司=佐銘島宗房(鮫島、阿多領)と大里按司=有川宗若(市来大里領)も派遣し、平田、新里、大里の三人にその保護をうけていた。
彼らはそれぞれ玉城王の娘婿となり、
佐銘島宗房の子「佐銘川宗家=佐女川大主」は有川宗若の娘を娶り、「有川氏」を継いで、「佐女川=鮫川大主」を名乗り、大里按司、新里按司を兼ねたのである。
承察度の勢威により政務が乱れた混乱時、薩摩から「北山王伯芝=島津貞久」が渡流してきたのである。
それを要因とし、北山、中山、南山の分裂が起こることになる。
察度王を継いだ「武寧王」は漁色遊びにふけり、失政してしまったのだ。
察度王の交易などにより、親睦を深めていた「明」による、「琉球属領化」を恐れた、西威王=伊集院忠国の第十一子「石屋真梁」が、1405年薩摩から伊集院氏軍を率いて、「尚巴志」を琉球へ送り、武寧王は討たれたのである。
この尚巴志の祖は、遠くは周防大内家の一族「高橋民部弘綱」である。
さらにさかのぼるとそれは、百済王族「淋聖」といい、朝鮮百済第二十六代聖明王の第三子と伝わります。また彼らは「姓 多々良氏」といいます。
そして、この子孫は「築山大明神」の社司と伝わり、多賀大宮司今八幡の禰宜である。
山口市にある、いやあったといわれる「築山大明神(つきやま)」はなんと、平成22年に発掘確認されたのです。
詳しくは下記ホームページへ
https://blogs.yahoo.co.jp/m_kobayashi_30/30667482.html
また「高橋」という名は「泊高橋」に残ります。
彼らは琉球尚王家の創設者「海運商高橋家」です。
大内義弘の命により、玉城王第二子の伊集院大隈守久氏(ひさうじ)は、玉城王第十一子石屋真梁=石屋禅師を開山とし、1390年に曹洞宗法智山「妙円寺」を建立した。「妙円」とは大内義弘の娘のことである。
「妙円寺」には、密かに受け継がれていたものがあります。
それは、真実の正統琉球の歴史でした。
byはやさすら