山陰基央氏の沖縄への言葉が残されていた。

靈(タマ)の満ち
「山陰神道」は、昭和29(1954)年に興りました。第七十九世山陰基央は、昭和22年(1947)中山忠徳の猶子となる。
彼は沖縄を訪れ、そこで衝撃を受けた。
人類の信仰の根源、真髄を沖縄に視たのだ。これは、山陰基央氏の人類に向けたメッセージである。
「起(タ)て琉球の児等」
琉球を始めて訪れ、その深い感動に号泣したのは昭和四十七年の夏であった。
琉球を愛する私の心情は、琉球の魂と同化しているのである。もし誰かが琉球を軽蔑する人があるとしたら、私の心は怒髪天(ドハツテン)を突く勢威(イキオイ)で、その人の頭に大喝するであろう。
無知蒙昧(ムチモウマイ)とは君のことだ。
君は、琉球の御嶽が、伊勢の皇大神宮や有名古大社の原形であり、今も尚、其処に岩座(イワクラ)だけの祭場があることを知らないから、原始的宗教を求ずる琉球人を恥しいと思っているのだろう。
馬鹿なことよ。
文明に毒された世界の高等宗教は、今や世を救う力を失ったのだ。
形態だけの社殿に住む神を拝む人々と、創造の力を失はぬ自然の斎場(ユニハ)に住む神を拝んでいる琉球人を比較して、どちらを尊いと思うかね。
原始の斎庭に来る神を拝みつつ、現代文明の社会に活きる、この琉球人の存在は奇跡にも似た現実である。
まさに驚異の事実である。
それは、在留米人の知識人(インテリー)はもちろんのこと、本土の知識人や心ある宗教人、また芸術家も
人類の古里をここに観ると·········
君の狭い視野と、無知からくる自己卑下(コンプレックス)を捨てたらどうだ。
たとえ。君が本土の大学に学んだ人だとしても、生れ育った琉球の山野が、人類再生の源泉であると気づかないのは魂の真眼が壊(ツブ)れているからだ。
この明盲目め!
脚下照顧(キャッカショウコ)せよ!
どこの国の民も皆、今こそ、己が古里の魂を蘇生させようとしているのだ。
なんとなれば、人類世界は重大な転機に起ったからである。
自滅か再生かの断理に立っている人類は、この恐るべき悪魔の文明(物質万能の文明)から脱出しなければならないのだ。
では何処に帰るのか。そのことすらわかってはいないのだ。
その重大な時に、沖縄海洋博に多くの人々は訪れてくる。
その僅かな人々でも、必ず聖なる御獄に詣でるであろう。
その人々の中には、他郷に出でし琉球の同胞もあるだろう。それらの人々が、爆発するような魂の開眼を得て人類救済の光明を見出すことだろうよ。
心すべきは、君自身の覚醒にあるのだ
私は心から琉球を愛している。
琉球は私の魂の一部である。
日本の源泉たる琉球を誰人(タレビト)にも汚させたくはない。
それが、たとえ、琉球の人々であれ、私の怒る鉄槌(テヅチ)は下るであろう。
今や琉球の山野は琉球人だけのものではない。
「琉球は人類の宝である」
昭和五十年七月一日
山蔭 基 央 貴嶺官にて
byはやさすら
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