アイはやさすら ほどきむすび

琉球弧の神々と歴史を取り戻そう。 お爺、お婆が守ってきた宝の島✨琉球‼ 私たちに今何ができるのか。 まずは知ることから始めよう‼

< 2018年12>
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てぃーだイチオシ

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驗(しるし)の魂(たま)
琉球列島が海から顔を出したのは1500万年前のことです。
さらにその大昔は、二つの超大陸が存在し、その間にテチス海がありました。

地質学者木崎氏は、南極、ヒマラヤなどを回り調査研究を行いました。彼の著者シリーズは琉球の歴史を知る上で欠かせない種本です。

また沖縄の至るところに、天然ガスが眠っているのをご存じでしょうか。
明治20年頃から、琉球列島の調査が行われ、昭和10年に半沢正四郎氏がその研究結果を発表しています。

実はそれより遡る、明治18年、賀田氏(1886)は,すでに現在の琉球列島の地質学的な骨格となることを公表していました。
なんと!宮古島の調査が最初に行われているのです。
しかも! 賀田論文の付図には「東京地学協会、日本沖縄宮古八重山諸島地質見取図、明治十九年二月、縮尺七十三万六千分之一」 という日本初の地質地地図が作られたのです。


さて、超古代琉球列島は、南のゴンドワナ大陸の縁の海の底にあり、ヒマラヤと繋がっていました。
その頃の海に堆積した地層が本部半島を作る本部層です。海洋博で保護されている、アンモナイトや二枚貝(ハロビア)の化石はこの頃の物です。
日本本土には無いものが、琉球にはあり、ヒマラヤやアルプスにも発見されているという事実から、ヒマラヤに繋がっていたということになります。

また、貨幣石(かへいせき)も奄美大島から北には見つかっておらず、それより南から発見されています。それも、南方諸島やヒマラヤから出ているという事実です。

琉球列島が海から浮上したのは、四万十層が褶曲して、隆起した1500万年前です。沖縄では名護の嘉陽層でそれを見ることができます。

琉球列島は、沈没、隆起を同時に繰り返した、大変なところなのです。

沖縄に地震がないなんて、のんきなこと言ってたら大変なことになりますよー

インドネシアに起きた津波は地震ではなく火山の噴火と言われています。

沖縄の火山を調べてみてください。
「古代琉球海底火山」検索してみてください!


byはやさすら

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驗(しるし)の靈(たま)

カイラス山のアラカーに住む「シバ」と、ヒヤマに住む神ヒマバンの娘「ウマー(山娘)」は夫婦となりました。そして「クマラ」のという息子を授かりました。

彼は「アグニ」と「ソワカ」に預けられ、神軍の最高指揮官となりました。

「クマラ」の養父「アグニ」は「火神」で、地上の人間と天上の神との仲介者でもあります。
「アグニ」の祭火よって投じられた供え物はその名を「ソワカ」といい、その供え物は天上の全ての神へ、煙となり届けられます。

「アグニ」は太陽または石から生まれた赤色の身体を持ち炎の衣を着て、悪魔を焼き払い、人間を危難から守り、人間や動物の体内での食物の消化作用として、健康をもたらし、ひいては子孫繁栄や財産(家畜)の増大などももたらすとされています。

「アグニ」は
天上にあっては太陽
中空にあっては稲妻
地にあっては祭火
家の火、森の火、心中の怒りの炎、霊感の火である。

また「アグニ」は別名を「烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)」といいます。
「シバ」は沖縄の北部地域に残る神祭りの神役に「シバ神」があります。
そして、旧約聖書に出てくるモーセが、山の上で
聞いたのは燃えた「シバ」の中からする声です。


「クマラ」は八人のウバによって育てられ、ヒマーラヤのクマーラというとても美しい青い目を持った鳥に似ているということで、その名をもらいました。

ちなみに「クマラ」はポリネシア神話ではサツマイモ( 琉球薯 )のことをいいます。

「クマラ」はまた 毘沙門天ともいい、毘沙門天=多聞天は、古代インドでは、北方守護と財宝守護の神とされ、別名「クベーラ」と呼ばれる軍神であるといいます。

日本では?
「サナートクマラ=永遠の若者(サンスクリット語)」またの名を「火の霧の子」 とも。
金星から天下ったといわれ、別名を 「魔王尊」といいます。
彼は地下空洞の支配者でもあり、
地下空洞は北欧とヒマラヤと南米と日本の4か所に、地表へ通ずる出入り口を持ち、日本の通路は鞍馬山であると言われています。
「魔王尊」は、地上に破壊と創造をもたらし、国家を司る、意志と勇気と創造と進化の神であり、人類の父でもあります。また、 地球の霊王であり、地球全体の進化を支配しているともいわれています。

クマラは日本でいうところの
「猿田彦大神」です。
彼らは太古の昔インドから琉球そして日本に来た方たちなのです。

猿田彦大神の象徴である「鼻」は「象の鼻」の意味もあるかもしれませんねー
沖縄では「鼻」といえば「岬」を表します。



「猿田彦大神」別称

「サルタヒコ」・「サダル神」・「椿大明神」・「大天狗」・「道祖神」・「大田命」・「 船玉の神」・ 「大行事権現」・「衢の神」・「土公神」・「佐田彦大神」・「千勝大神」・「精大明神」・「塞神」・「岐神」・「大地主神」・「白髭大明神」・「供進の神」・「山の神、庚神様」・「道別大明神」 ・「衢の神」・「供進の神」・「行満大明神」 ・「 地祗神」 ・「国津神」
まだまだありそうです。




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驗(しるし)の魂(たま)
遺伝子研究者らが発表した「ミトコンドリア・イブ」。それは「すべての現存する人類は母方の家系をたどると、約12-20万年前に生きていたあるミトコンドリアの型をもつ女性にたどりつく」というものです。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96

面白い研究結果が公表されています。

日本人の母系統は9人の母がいたということです。私も自分の遺伝子を調べてみました。その結果「B」という系統に繋がることを知りました。( 遺伝子検査マイコードディスカバリー9800円)

日本人の9人の母
(遺伝子検査マイコードより祖先ルーツ抜粋)

① D系統(約6万年前)
Dは中国中部が起源。
日本人で35%。
東アジア最大のグループ。日本以外では中国や朝鮮半島にも多い。中国中部で原始的な稲作を開始し、その技術とともに日本にやってきた。弥生時代の到来。(遠い血縁:中国中部の人々)
(古代琉球に東シナ海の大陸からきた稲の人々)

② M系統(約4万年前)
M7(沖縄の人に多い)は今は海底に沈んだ“スンダランド”と呼ばれる大陸が起源。
日本人の15%。
日本列島にもっとも古くから居住していて、数万年前に南方より日本に流入し、その後、縄文人として日本で繁栄。
世界では日本人だけにしかみられない。
(古代琉球の原住民)

③ B系統(約6万年前)
Bは日本最初の移住者です。Bは中国南部が起源。
日本人の15%程度。
ハワイを含む太平洋の島々から南米大陸まで、全世界に分布を拡げた開拓精神にあふれたグループ。日本には比較的古い時代に南方よりやってきて、縄文人になった。(遠い血縁:ハワイの原住民)
(古代琉球の最初の移住者)

④G系統(約3万年前)
Gは中国北部が起源。
日本人の約7%。
日本以外ではシベリアなどの北部地域に多い。日本には中国経由でやってきて弥生人になったグループと、シベリア方面からやってきてアイヌ人になったグループとがいる。
(遠い血縁:シベリア地方の人々)

⑤ A系統(約2~3万年前)
Aはシベリアが起源。
日本人の7%。
シベリアでマンモスを狩猟していた。現代では東アジアからアメリカ大陸まで広く分布し、日本には比較的古い時代にやってきて、縄文人の一部になった。
(遠い血縁:アメリカ先住民)

⑥ N系統(約2~3万年前)
N9はユーラシア北部が起源。
日本人の7%。
カムチャツカ半島などの北東アジアに分布、日本へは比較的古い時代にやってきて縄文人になったグループと、比較的新しい時代にやってきてオホーツク文化を形成した。遠い昔から魚を食べてきた。(遠い血縁:カムチャツカ半島の人々)

⑦F系統(約4~5万年前)
Fは東南アジア地域が起源。
日本人の5%。
日本以外では東南アジアでもっとも多いグループ。それ以外にはあまり拡がっていない。東南アジアから大陸を北上し、朝鮮半島経由で日本にやってきた。
(遠い血縁:東南アジアの人々)

⑧M系統(約4万年前)
M9はF系統と同根。
日本人の約3,4%。
ヒマラヤ山岳起源。

⑨M系統(約4万年前)
M8はMから分かれた北東アジア起源。
日本人の約3,2%。
ベーリング海を渡り、北米から南米へ移動した。


この中に、イザナミとアマミクがいるんですねー!



byはやさすら











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驗(しるし)の魂(たま)
にらいの人々は長く続いた天変地異で大変な打撃を受けていました。

世界規模で起こった大津波によって大打撃を受けながらも、にらい人たちはかろうじて残った土地へ逃れることができたのです。

日王と御子らは沖縄諸島に、また別グループは奄美大島、九州方面へ、また台湾島へと移動をしていきました。
移動先の沖縄諸島においても、わずかな平野部では、全ての人々が同じところにとどまることは難しく、また食糧の確保も困難と考え、日王は分散の形をとることにしました。
日王(ひこ)は神託を行い、御子に東アジア大陸への移動を命じました。
彼らの植民地となる植民都市が海岸線に沿って幾多もありました。

御子たちの船は、対岸にある東アジアの、災害を逃れた場所にたどり着きました。
しかし、そこには先に避難してきていた稲の民たちがいました。
植民都市を管理していた総督は御子を含む彼らを歓迎しませんでした。
にらい島の水没を聞いていた総督はこれを機に独立を狙っていたのです。

御子たちの上陸地には、稲の民らも集合し、そして族長会議が行われ、「御子」を「御王(みこ)」とし、植民都市への圧力を開始することにしました。

植民都市の総督は、難民らを下層労働者として奴隷のように扱っていたので、御王へ助けを求めたのです。その難民らとにらい島の集団を合わせると多勢となり、植民都市の総督は、慌てて彼らに領土を差し出すこととしました。

御王(みこ)はにらい島を想い、自国を「にらいかない国 」と名付けたのです。

しばらくして総督が亡くなり、御王は植民都市を抑えました。しかし食料不足問題の為、民らの不満がつのっていきました。
そして、御王は新たな植民地の探索隊を出し、インド亜大陸の「バン王国」の近郊に適地を見つけたのです。

バン王国は大洪水で移動してきた、稲の民らの国でした。



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驗(しるし)の魂(たま)
にらい島(宮古島)どーなん島(多良間と水納島)かない島(石垣島)の三島は交易関係でもありました。
南海では当時「宝貝・真珠」を繋いだものを「ミクラタナ」といい、交易相手の信用の証として使われていました。「ミクラ」は宝の入った船倉の事で「タナ」は船の事です。「ミクラタナ=宝船」後に、宝貝は貨幣として使われるようになっていったのです。


にらい島の族長は日の覡(かむなき)という意味の「日覡(ひこ)」と呼ばれていました。
日覡の持つ太陽光を反射する銅鏡は、太陽の霊魂が宿る神聖なものでした。それは、世襲で受け継がれていきましたが、更にその霊能力も、世襲で受け継がれるものだと信じられていました。


にらい島、どーなん島、かない島を中心に多種部族らから、日覡は「日王(ひこ)」と呼ばれるようになり、東シナ海にあった大陸から稲を携えてきた部族と区別するために「にらい人」と自称しました。

「権力」という概念もなく、各部族の族長等の会議制で、取り決めを行っていましたが、族長の数も増えてくると、代理人をたて会議に参加させるようになりました。
そこで、日王も直接参加するのをやめ、自分の後継者「御子(みこ)」を代理人としてたてることにしました。

世界のあちこちで都市国家が発生し始めました。そして、国家間に強弱の差が生まれ、やがて強力な中央集権国家が幾つか誕生していきました。

BC12000年頃に氷河期は終わり、気候は温暖化となり、海進が始まりました。 海進は徐々に進行したのではなく、ある年の春、突然の大津波となって押し寄せたのです。 それは幾度となく繰り返され、更に 東シナ海にあった大陸は水没してしまいました。

かない島は山地が水没を免れましたが、石垣島と西表島に分断され、沖縄諸島は山岳地帯がかろうじて水面に浮上した状態となりました。

にらい人たちは、にらい島から、沖縄本島や石垣島と西表島になんとか逃れることができました。


しかしにらい島はそのほとんどが水没してしまったのです。

宮古島の空白の歴史の始まりです。





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驗(しるし)の霊(たま)
久米島の神歌【五月祭りのウムイ】の一節 です。

んかしあたるごとに
(昔あったように) 
きさしあたるごとに
(きさしあったように)
うしわかうえぬーる
(ウシワカ親祝女) 
さとぬしが
(里主が)
やじゆくひち
(やじゆくを引いて) 
もしちゆひち
(真人を引いて)
うりてうりなはて
(降りて降り直して) 
うりてうりほこて
(降りて降り誇って)
いしだもとほくて
(立派な座所を誇って) 
かなだむとほこて
(金たもとを誇って)
みーのときうがで
(巳の時拝んで) 
うまのとぅちなうさ
(午の時直そう)


きみがゆのうぐぁん
(君が代の御願い) 
かみがゆのうぐぁん
(神の世の御願い)


みまぶやいたぼり
(見守って下さい) 
やしやいたぼり
(養って下さい)
んかへるゆぬうぐぁん
(迎える世の御願い) 
わがまちりうぐぁん
(我が祭りの御願い)



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驗(しるし)の魂(たま)
今から二万年前、大陸から対岸の沖縄諸島へ移住した部族がいました。
海面は今より120mも低かったのです。

その頃沖縄本島と宮古島の間には珊瑚礁によって形成された島があり、その島は「ウルマ島」と呼ばれていました。
また沖縄諸島には先住の部族がおり、原始的な漁労採集を営んでいました。

その頃の宮古島は周辺の離島と陸続きであり、「にらい島」と呼ばれていました。ここは氷河期に大規模な水没をした為、ハブもおらず、土壌もアルカリ性で、稲作に適していました。

大陸から移住した部族は「にらい島(宮古島)」を起点に「どーなん島(多良間島+水納島)」と「かない島(石垣島+西表島)」に南下、また東シナ海にあった大陸や沖縄諸島を経由し北上していきました。


島にはスンダランドから渡航してきた先住の部族がおり、彼らは「太陽」を崇拝する信仰をもっていました。

彼らがいたスンダランドは様々な種族が入り、古代の先進的地域でした。
またスンダランドは鉱物資源にも恵まれており、銅は金や銀よりも産出量が多く丈夫なため、彼らにとっては優秀な素材であり、原始的な叩く手段で金属器などを作り、祭具や族長の権威を示すアクセサリーなどに用いられていました。

先住の太陽祭司族は金属の技術をもっており、それ以前にはいった同種の部族は金属の存在を知りませんでした。
彼らは「銅鏡」を作り、それを所持する族長を祭主としていました。


大陸からきた部族は狩猟採集、遊牧生活を送っていましたが、ある日、東シナ海にあった大陸の湿地帯に自生する「稲」を発見したのです。それはジャポニカ米のもととなるものでした。彼らは稲の栽培法を確立し、稲作を始めました。

それからは人口の急増や村落の形成をもたらせましたが、水をめぐる同族間での争いが絶えず、また北方の異民族や猛獣などの被害が多く、安心した生活を送ることができずに、対岸の沖縄諸島へ稲を携えて移住してきたのでした。
彼らが持っていたのはジャポニカ種といわれる稲です。それは突然変異で見つかったものでした。
彼らはその中から新種を選びだし、新たに栽培を始めたのです。

アルカリ性の土壌をもつ宮古島は、稲作に適したところだったのです。



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