
靈の道
昭和44年(1969年)11月1日。
沖縄から熊本県上益城にある幣立神宮、別名「日の宮」に入った神人たちがいた。彼等の目的はある祈願であった。
11月2日(旧暦9月23日)この日を重要な日として3日間滞在したようだ。
そして「日の宮の社家」から、当時の「沖縄首席屋良 朝苗氏」にその祈願報告の文書があったという。
「日の宮への祈願を厳修した旨」
折り返し、沖縄から「日の宮の社家」へ
「11月19日午前11時、御心こもる書状受け取り、翌日11月20日午後4時半、琉球政府首席室へ届け、11月21日首席の手に届けました」
昭和44年11月19日この日から3日間、佐藤首相とニクソン大統領が会談。そして11月21日に日米共同声明を発表。
「安保堅持、昭和47年に沖縄返還を表明」
1960年(昭和35年)4月には沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成。軍用地問題などを発端に「島ぐるみ闘争」と呼ばれる抵抗運動が起こる。
1970年(昭和45年)12月20日未明、沖縄本島中部のコザ市(現:沖縄市)で、アメリカ軍兵士が連続して起こした2件の交通事故を契機にコザ暴動が発生した。
沖縄県民が不当に差別されていたことに対するコザ市民の怒りが表面化したもの。
「これ以上沖縄県をアメリカ軍政下に置くことは、適当でない」
戦後も続いた沖縄の苦しみ。
愛する者たちの受け入れ難い死に直面する中、生きていくために必要なものも全て失われていた。
神人たちが行った日の宮での祈願とは
「日本復帰」の祈りであった。
願いカナイ、ミライに道が拡がった。
後、昭和45年(1970年)4月27.28日の両日彼等は再び幣立神宮・日の宮を訪れた。祈願成就の御礼参りで来られたのだ。
この時、日の宮の東御手洗の神水を奉じて、沖縄各地の重要な聖地5箇所に注がれ、共に本土復帰の結び固めの儀もおこなわれたという。
いつから始まったのか・・・沖縄は常に祈りとともにある。
私は、今から26年程前「水からの伝言」という本の中で「幣立神宮、日の宮」を知りました。竹内文書にででくる「五色人」その宮が幣立神宮である。―古名は「ひいたて」
太陽の天孫が、日(火・霊)の玉。
地球の分身が水の玉。
この日の玉・水の玉が鎮まります聖なる神の宮が幣立神宮。
御祭神 アソヒノオホカミ
私は20年程前、念願の幣立神宮を訪れました。その日はしとしとと小雨が降る少し肌寒い日でした。
長い階段を上りながら、鳥居を見上げ思いました。
「なんて雨の似合うお宮なんだろう」
しかも、雨のせいか参拝する人の姿はありませんでした。
ゆっくり神殿に歩みを進めて行くと、降っていた雨は静かに止み、灯りの灯る神殿の中に春木宮司が静かに座っておられるのが目に入りました。その凛とした御姿に感激でした。軽く会釈をした私の姿を見た春木宮司は神殿から出ていらして、有り難いことに弊を振ってくださいました。なんともいえない厳かな雰囲気の中、私は穏やかに参拝を終えました。
それから神社の後ろにある小さな鳥居をくぐり、道に沿った斜面を降りていくと、山々に囲まれた隠れ里?のような場所がありました。
そしてその先に、生い茂る木々に囲まれた森の中にひっそりと建つ社を見つけました。
そこは「東御手洗」。
太古より「八大龍王」の源泉として伝わるところで、天孫天降りの御子瓊瓊杵尊は、この神水で全国の主要地を浄められたとも伝わります。
木の葉に滴り落ちる雨粒と腐葉土の香りに包まれたナー(庭)に、懐かしさを感じながら東御手洗に静かに手を合わせました。
五色(イツイロ)の 神の手振りぞ
日の宮の
斎場(ユニワ)に祈る
世界(ヨ)の平和(ヘイラギ)
五色神祭という祭事が五年毎に「8月23日」に執り行われています。
それは、世界人類の五色の代表の神々が、根源の神の広間に集まり、地球の安泰と人類の幸福・弥栄・世界の平和を祈る儀式。
振り返り気づけば、私は5年越しに幣立神宮を訪れています。