御先先世ー古代琉球列島②

アイはやさすら

2018年12月05日 08:08



驗(しるし)の魂(たま)
にらい島(宮古島)どーなん島(多良間と水納島)かない島(石垣島)の三島は交易関係でもありました。
南海では当時「宝貝・真珠」を繋いだものを「ミクラタナ」といい、交易相手の信用の証として使われていました。「ミクラ」は宝の入った船倉の事で「タナ」は船の事です。「ミクラタナ=宝船」後に、宝貝は貨幣として使われるようになっていったのです。


にらい島の族長は日の覡(かむなき)という意味の「日覡(ひこ)」と呼ばれていました。
日覡の持つ太陽光を反射する銅鏡は、太陽の霊魂が宿る神聖なものでした。それは、世襲で受け継がれていきましたが、更にその霊能力も、世襲で受け継がれるものだと信じられていました。


にらい島、どーなん島、かない島を中心に多種部族らから、日覡は「日王(ひこ)」と呼ばれるようになり、東シナ海にあった大陸から稲を携えてきた部族と区別するために「にらい人」と自称しました。

「権力」という概念もなく、各部族の族長等の会議制で、取り決めを行っていましたが、族長の数も増えてくると、代理人をたて会議に参加させるようになりました。
そこで、日王も直接参加するのをやめ、自分の後継者「御子(みこ)」を代理人としてたてることにしました。

世界のあちこちで都市国家が発生し始めました。そして、国家間に強弱の差が生まれ、やがて強力な中央集権国家が幾つか誕生していきました。

BC12000年頃に氷河期は終わり、気候は温暖化となり、海進が始まりました。 海進は徐々に進行したのではなく、ある年の春、突然の大津波となって押し寄せたのです。 それは幾度となく繰り返され、更に 東シナ海にあった大陸は水没してしまいました。

かない島は山地が水没を免れましたが、石垣島と西表島に分断され、沖縄諸島は山岳地帯がかろうじて水面に浮上した状態となりました。

にらい人たちは、にらい島から、沖縄本島や石垣島と西表島になんとか逃れることができました。


しかしにらい島はそのほとんどが水没してしまったのです。

宮古島の空白の歴史の始まりです。





byはやさすら

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